創業の精神2016年11月21日

日経MJの3面に毎週金曜日に掲載されていた「HISTORY」の連載がまもなく終わります。今年の春、最初にこの話があった時には10回くらいになるのではないかとのことでしたが、結局20回を越えました。この「HISTORY」のコーナーは、今年着任した編集長が、この時代を変えてきた人たちの声を、今のうちに直接聞いて、残しておこうとして始めた企画です。そして、その中で私がたまたま「食」関係のことを話す人として選ばれたようでした。

生まれてから今までの自分や家族や時代背景のこと、会社をつくって、社会に向けて拡大していくこと、日本の仕組みの中でいろいろともがいていたこと、限られた紙面でしたが、今まで皆さんに伝えられなかったことなど、新たに文字にしたものも多くありました。

振り返ってみると、どんな店でどんなやり方で新しい店をつくろうかと一日中動いていた頃、次はどんなメニューをつくろうか、どこかに新しい食材がないだろうかと悩んでいた頃が、とても大変だけれども本当に充実していたような気がします。何をつくったらお客様が驚くだろう、喜んでくれるだろう、といろいろ考えながらお店でメニューとして出した時のお客様の反応や、それで始まる言葉のやりとり、次の商品開発のヒントなど、本当に楽しかったです。

そのように自分達の手の内だけで会社を動かしていくことができる状況は理想なのですが、外に向けて出ていく時にはいろいろな障害の前に挫折してしまう危険があります。お金を借りたり、取引を始めたり、株式を公開したり、株価の維持や利益の配当など、店でお客様に食べていただくこと以外のことに、時間と手間とお金がかかり、本来の仕事だけに集中しているわけにはいかないのも確かなことです。それでも、自分達がやるべきだと決めたことは、何があっても大事に守らないといけません。それは、学生が社会人になる時に、自分のこれからの仕事に対する考え方を決めたのに、実際に社会に出ると思いのままには動けないのと同じです。しかし、それを何かの理由で妥協して変えてしまうのなら、何のために自分達が会社をやってきたのでしょうか。

外食に目を戻すと、外食の企業が株式を公開したのを機に、社長に多額の資金が入って、本業を忘れてしまった、そんな経営者が後を絶ちません。そんな会社の店には、この先もお客様にずっと来ていただけるとは思えません。外食に関わる人は、皆、「一人のお客様を丁寧にお迎えする」、「おいしさ・安全性・楽しさを追求する」など会社を始めた時の、その気持ちを持って仕事をすることを忘れてはならないのに、それをしっかり保ち続けることができていない、そのことが残念でなりません。

これから未来に向けて起業する人は、「食は人の命に係わっている」ということを土台にして、お客様の役に立つ新しい仕事をして欲しいと思います。儲かればいい、話題になればいい、そんな甘いものではありません。どうか、いつも謙虚な心を持ち続けてください。そのことをお客様はいつも見ています。

東京オリンピック2016年08月15日

リオデジャネイロオリンピックの熱戦が続いています。
日本選手も世界中の選手も、誰もが健闘している姿が美しいです。

さて、2020年は東京オリンピックですが、今日の私のいう「東京オリンピック」は1964年、昭和39年の東京オリンピックの頃の東京と日本の様子です。

日本全体が「東京オリンピック」を合言葉に、高度急成長時代の真最中、社会全体の仕組みやモノを急速に整えて続けていたのです。白黒のテレビが家庭に普及したきっかけは、1959年、昭和34年の当時の皇太子様のご成婚でしたが、1964年、昭和39年の東京オリンリピックはカラーテレビに買い替えるきっかけとなりました。また洗濯では、たらいに洗濯板をつけて手洗いをしていたのが、ぐるぐると攪拌するだけの電気洗濯機そして水流や脱水装置がつくように変わっていきました。ご飯は、薪で炊いていたのがガスになり、電気炊飯器ではスイッチを押すだけになりました。電化製品が家庭にひとつひとつ増えていきました。

街中では、道路整備が進み、地下鉄が続々と開通していきました。特に東京に「首都高速」という車専用の高速道路がオリンピック前に羽田につながったことをよく覚えています。私は、来日した選手や要人の都心との移動に間に合わせて作ったのだと思っています。
東海道新幹線もオリンピック直前に開通しました。

道路や交通の環境が整い、家の中では手仕事が減り、テレビという情報手段もできました。
そうすると、家族で外に食べに行く、それこそ「外食」することがレジャーとしての目的になり始めたのです。今でこそ、普通の生活のほんの一部とも言えるほど、実生活に溶け込んでいますが、「皆で外に食べにでかける」のは特別のこと、とてもうれしいことでした。

全てが揃って、何でもあることが「当たり前」になった今、ポケモンとのコラボや、ロボットによる調理、新しい時代の波も出てきています。そうなると、食の世界では素材の味と安全性がますます重要になってきます。そして、人にしかできないことが「人の感性」に響くのです。これからのお客様が喜ぶことは何なのか、それをがっちりつかんで、商品としてしっかり表現できる会社が、強い会社ではないかと思います。

糸川さんの思い出2016年06月07日

1980年代、私は糸川英夫さんの勉強会によく出かけていました。
糸川さんは、ペンシルロケットを作った人として知られていますが、もともとは飛行機・戦闘機を作っていた人で、その仕事は太平洋戦争の直前にやめてしまったそうです。

私が糸川さんの勉強会で教わったことは、「今、あること・あるものは過去のもの、ここで終わったものと思って進化させないと新しい価値にはならない。ただの真似には意味がない。」という考え方でした。何を加えたら、何を変えたら、もっと良くなるのだろうか、といつもいつも考え続けていくことが、その後のメニューや店づくりや会社経営に取り組む姿勢のもとになったのだと、今振り返って、改めて思います。

イスラエルの砂地に緑地帯を作ってアボカドの栽培をしてみたり、「これまでになかったことを新しくやってみる」ことを数々実践した人でした。

仕事以外でも本当に多趣味で、踊りのバレエ・歌・チェロなどいろいろなことを練習して、発表会やコンサートもやっていました。年をとっても、何にでも興味を示してやってみる、既成概念に全くとらわれない、亡くなるまで前を向いて歩いていた、心の自由な柔軟な人でした。

私は「その年になってまで、どうして仕事をするんですか?」とよく聞かれますが、それは糸川さんの生き方が「前を向いて生きていないと死んでしまう」という私の生き方の道しるべになったからなのです。新しい価値をつくって商売をしてお客様に喜んでいただくことが、うれしくてうれしくてしかたないのです。

新しいビジネス、商売をしようと考えているなら、モノであふれていると言われる今日でも「ないもの」はいくらでもあります。若い皆さん、引退した皆さん、前を向いて、何にでも元気に挑戦してみてはいかがですか?

卒業式2016年03月11日

卒業する若者を見かける頃になりました。
卒業して社会人となる皆さん、おめでとうございます。

昭和28年1953年に私が中学校を卒業した時、私は「貧乏暮らしから抜け出したい」という気持ちしかありませんでした。地元のしがらみを捨てて、他の場所に行って、自分で働いて、好きに食べたい、だから東京に行ったのです。卒業したクラスメートは約50人、その内の半分25名は地元で就職したり、自宅の農業の仕事をし、20名は高校に進学し、上京して就職したのが4人、名古屋に就職したのが1人でした。

上京して就職するのは「海苔店」というのが一般的なコースだったのですが、人から声をかけられたこともあって、私は自分の判断で「日本一になる企業」に就職したつもりでした。それは「木製の、氷を使って冷やす冷蔵庫」を作っている家具店でした。結果的には、1年半の激務で体を壊してしまい、改めて築地で働くことになるのですが、あのまま仕事をしていたとしても、数年後には「電気冷蔵庫」が急速に家庭に普及したのですから、どちらにしても続かなかったかもしれません。

私が卒業したのは何もなかった頃、物も食べ物も仕事もあるだけでありがたいことでした。勉強も嫌いだったし、悪いこともしたし、技術もない自分が、「働いて、お金を得て、食べる」と単純に簡単に考えていたことが子どもっぽくて恥ずかしいことだったなあと今は思います。

今日、社会人となる人は、生まれた時から「モノ」は何でもあったし、自分のやりたいことの選択肢もいくらでもあるし、いつからでも、違うことが何でもできる、それは確かです。

でも、自分の人生の区切りというのは、そんなにあるものではないのです。
「家にいていい(いてくれ)と親が言うし、食事には困らないからいいや」と、
日々を楽に暮らすことだけでは、自分の過ごしたい人生は出てこないのです。

 現状とは関係なく、自分は何をしたいのか、自分の道は何なのか、じっくりと考えて、決めて、行動をしないと、人生がもったいない、そんな気がします。

 私は多くの人に、力強く前を見てしっかりと歩んでほしいと、応援の気持ちを込めて願います。いつでもできると思って何もしないなら、永遠に何も変わらないのです。何とかしたい、変えたいと思ったらすぐに行動する、そうすると自分の道を作ることができるのです。